このウェブサイト「京都大学の自由の学風のために」は、2012年11月15日(木)、京都大学学内限定で公開を開始し、本日、2012年11月19日(月)より、一般公開を開始しました。
私ども、京都大学の「国際高等教育院」構想に反対する人間・環境学研究科教員有志の主張の内容については、掲載済みの3つのメッセージを、また同構想の詳細な経緯については、「学内資料一覧」ページを、それぞれご覧ください。
人間・環境学研究科教授会は9月27日に、同研究科会議(教授会よりも広範囲の教員を含む)は11月8日に、「国際高等教育院」構想に反対する決議を行っています。 |
私どもの主張にご賛同いただけるかたは、「署名ご協力のお願い」ページにて、ぜひご署名やメッセージをお寄せいただければ幸いです。 |
ご質問やご意見のある方は、「お問い合わせ先」ページをご参照ください。
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以下、やや蛇足ではありますが、本サイト管理人として、この場をお借りして、今回の「教育院」問題に関して少々思うところを述べたいと思います。
京都大学では、毎年度はじめ、新2回生に対して「2回生進級時アンケート」を実施しています。この調査の目的は、学生が入学後1年間の大学生活の中で京都大学の教育に対してどのような感想を抱いたかについて、2回生進級時点での意見を聞き、今後の京都大学の教育を改善・充実してゆくための重要な資料とすることにあります。
私自身が担当した2006年度の「2回生進級時アンケート報告書」の「まとめ」の部分で、次のように書きました。
京都大学の全学共通教育が――ひいては現代の大学教育全体が――直面しているジレンマ……とは、端的にいえば、京都大学の「自由の学風」の伝統に代表される学問の自律性と、現在の高等教育改革の基本的な方向性をなしている、広い意味での成果主義とのあいだに生じてくるものである。
(中略)
このようなジレンマの中で、今後の京都大学の教育はどのような方向に改善の道筋を見出すべきか――この問いに対してただちに一義的な解答を与えることは不可能であろう。ただ、次のような学生の意見は、この問いについて考えていくうえで重要な示唆を与えるように思われる。○大学の授業はTVの番組ではないので、どんな授業であれ、受ける側の捉え方にあると思います。「学生の声」を反映させる試みは頼もしいですが、大学の講義が「消費される商品」になってしまうのは残念です。【教育】
●自分の目標がはっきりしているためにかえって、その専門科目(建築)とのつながりがはっきりしない科目に対する意識が希薄になっていた。しかし、それは大きな間違いで本来自分にとって建築は、人間、世界を知るための手段であって目的ではない。すべてが建築のためにあるように考えたのが大きな間違いだったことに、この一年間の犠牲をもってはじめて強く認識したように思う。【工】
大学教育が、学生(という「顧客」)の側にあらかじめ存在する「ニーズ」にのみ応えるための「商品」ではなく、場合によっては(しばしば専門教育と結びつけられる)「目的」そのものをも相対化し、新たな自己発見や世界観の変革をもたらす可能性のある反省的な営為であるということ。この可能性をより拡大していく方向にこそ、今後の京都大学の教育の真の「成果」は求められていかなければならないのではないだろうか。
「成果」や「目的」を追求することそれ自体は、いうまでもなく、学問に限らずあらゆる人間の営みにおいて当然のことです。しかし、学問は、あるいは大学は、そもそもこの世界の中で何のために存在するのでしょうか。それは、上記の報告書にもあるとおり、
「目的」そのものをも相対化し、新たな自己発見や世界観の変革をもたらす可能性のある反省的な営為
ということにこそあるのではないでしょうか。そして、この反省的な営為こそが、(多くの試行錯誤を経てではあるにせよ)人類の知の、あるいは科学技術の進歩をもたらしてきたのではないでしょうか。
少し唐突かもしれませんが、もし日本の原子力開発に携わってきた科学技術者たちのすべてが、上記の学生のように、科学技術は「人間、世界を知るための手段であって目的ではない」という心を持っていたとすれば、福島の原発事故は起こらなかったのではないかと、私は思います。
――回り道が長くなってしまいました。
たいへん残念なことではありますが、現在進められている「国際高等教育院」構想は、京都大学の教養教育から、上述のような反省的営為を奪う可能性を、ひいては、学問が人間と世界のために貢献するということの真の意味を学生が学ぶ機会を閉ざす可能性をもっているのではないかと、危惧せざるをえないのです。
この危機意識を、このサイトをご覧いただく方々と共有していければと考えています。